H26年度 総会 記念講演録 春日井 敏之さん

学童期・思春期の子育て・教育 ~ 子どもの願いとつながり方 (H25/5/27)

2月に二人目の孫が生まれ、上の子のAちゃんを連れて病院に行きました。彼女は妹と目を合わせようとせず、ひとこと「いらん」と言ったんです。すごいでしょ。
一週間してお母さんと妹が退院して帰ってきたら「イヤやけどおねえちゃんになっちゃった。」と言いました。
「お姉ちゃんになったね」というと「おねえちゃん、ちがう!Aちゃん!」というのです。おねえちゃんとひとくくりにするなというのです。赤ちゃんの足にキスしたり、ちっちゃいなーといいながら、ギューッとつねってる。(笑)
母親が夜中に人の気配がして起きてみると、Aちゃんが妹を踏んづけていた。(笑)

4人きょうだいの長男の僕はそういうこともできずに、何をしていたかというと、2つ下の弟をずいぶんいじめました。50歳ぐらいになってから謝りました。「ひどいことしたね、ごめんねって」。
僕が3歳、4歳ごろどうしていたかというと、保育園の行事にお母さんたちがおんぶしている赤ちゃんの足をギューッとつねっていました。僕はそういう風にしか、不安やストレスを出せない子でした。それを僕は50数年間自分を責めつづけていました。
僕の中には悪魔が住んでいる(笑)。こんなことは絶対人には言えない…。それが、50数年生きてきて、不十分な点もダメな分も認めてもらって、あるいは次へつながっているということがわかって、「三つ四つの自分を許してやってもいいんじゃない」という自分がいて、初めて語れたのです。

自我の形成が始まるのは、2歳3歳、イヤイヤ期とか子どもはみんな悪魔になるとか、第一次反抗期とか、言います。
子どもたちが思春期になる。自我の形成、もう一人の自分との対話、親がよかれとおもって敷いてきたレールを壊して自分を作っていく。そういう時期に突然なるのではなく、2歳3歳から自我が芽生え、自分がしたいことや嫌なこと、つらいことややりたいことを出せて、受け止めてくれる大人と出会え、もう一人の自分を満たし、自分の心と身体と相談して自分の人生の主人公になっていこうとする。
カッコつきの良い子は、感受性が豊かだから親の期待に過剰適応して、そこそこできる。そのなれの果てが今の大学生。自信が持てない。大学に入ることが目的になって、自分が何をしたいかどうしたいのか考えてこなかった自分に気づく。そして途方に暮れる。

客観的には、みんなすごい力を持っている。そう言っても「ずっと、がんばれ、がんばれと言われてきて、どれだけがんばっていいのか。ずっと自分はまだまだダメ、まだまだダメっていうふうにして生きてきた。」というのです。
逆に、学力や生活面でしんどくて、苦戦をしている子どもたちは、早くから自分を切り捨てたり、「どうせ俺なんか」って自分を棄ててしまう。
どちらも共通しているのは、調子の良い時も悪い時も成功したときも失敗したときも、自分を大事にしていない。自分が大事にされてきていない。

子どもの自尊感情とか自己肯定感とか言いますが、むしろ自己のありようだけを問い続ける周囲の大人の関わり方が課題だと思えてならない。つまり一人ひとりの子どもたちがどういう人間関係の中で生かされているかではなく、「あなた、ちゃんとしてる?ちゃんとやってる?前向きに生きてる?」という風に個人のありようだけが問われる。
それは、プラスマイナスゼロからスタートしたら、減点評価にさらされているのです。

発達障害とかいいますけど、発達の凸凹ですよ。みなさんだって凸凹いっぱいあるじゃないですか。そのできないところに焦点化して、「なんでお前、これができないのか!」と追及するのか、凸凹のところの凸、すなわちできているところに焦点化してそこを認めて大事にして伸ばしていくのか。減点評価でスタートしていくのか、加点評価でスタートしていくのか、それによって子ども観が問われていると思います。その子の強み、ストレングスに注目して、援助する福祉的な援助の視点が教育の場でも大事だと思います。

自立と共同

「自立」っていうキーワードは、ともすると、「いろいろしんどいけど、人との競争の社会を一人でがんばりなさい」っていう孤立して生きるためのエンジンの側面に使われていませんか?
社会とつながって自分は生きるのであって、自己犠牲的に生きるのではないのです。
自分がやりたいこと、大事にしていることと、社会でそれを自分が仕事としてするのか。あるいは好きなことにこだわって生きるとか、仕事以外の趣味として生きること、それが大事だと思います。

「何回言ったらわかるねん、何回言わせるの、こんなの社会に通用せえへんで。ダメや、ろくな人生送られへんで」というメッセージを浴びせられていたら子どもはどうなります?

自分はがんばったけどダメだったとき、失敗したとき、悪さしたときに、
「応援してるで」とか、「味方やで」、「一緒にがんばろうな」とか声をかける。
そのあとで愛し、信ずるという気持ち、愛し許すという気持ちをつなぐ大人の関わりかたが問われているような気がするのです。

教育と子育ては、良かれと思って上からギュッと引っ張り上げるのではなくて、おずおずと後ろから手を添えて、「こんな感じでよいかな」と応援する。そうすると自分が求めてる方向に舵をとっていくことができる。

子ども、青年の生きづらさはどこから?

この20年あまりゆとり教育がとなえられてきました。しかし、優秀さに特化した受験競争は激化し、そこから外れる子どもたちの問題行動は激化するし、虐待問題は起きて、親御さんは子育てで苦戦、苦労されている。
発達障害っていう子どもの発達の特性の理解も進むけれども、どう支援したらよいかというところでとまどいもある。

僕は60年代70年代に学童期、少年期を過ごしました。高度経済成長の時代です。
先生は言いました。
「努力は報われる!がんばれ!」って。

努力したら報われました。中学校を卒業したら就職はいっぱいあり金の卵と言われました。でも、今の大学生は、「努力は必ず報われる!」というと、「先生嘘つきや」と言います。僕は嘘をつかないように真実を語ろうとします。
「努力はその結果においてしばしば裏切るけれども、しかし、努力は努力をした人のことを裏切ることはない。結果においてしばしば裏切るけれど、それはあなた方の責任ではない」と言います。

就活で百社エントリーして入口ではねられて、どうしようという学生がいる。第5次面接までいって切られた学生もいます。何がダメだったんですかね。

でも、第一希望がすべてかなう人生なんてない。
第一希望で学校の先生になろうとした人がどれだけいるか、みなさんも仕事が第一希望だとは限らないでしょ。
お母さんがパートで食いつないで大学に通わせてくれているということもある。生活のために働かないといけないのが事実。
そういうことをしゃべって、第一希望じゃなくてもご縁があったところで3年頑張れ。

適性っていうけど、コンピューターに自分の適性を占ってもらってそれを信じて就活なんかするな。適性っていうのは、行った先の職場の人との出会いや職場の環境の中で磨かれる。結構うまくいくかもしれない。でもうまくいかなかったら、考えるきっかけになるかもしれない。

目標が変わって、次の目標ができたときにこれまでの努力が支えになる。努力は努力した人を裏切らない。僕もそうやって生きてきた、と学生に話をします。

僕らの生きる力は「つながって生きる力」

文科省は直近の指導要領の中で生きる力をめざし、知、徳、体のバランスのとれた力としての「生きる力」を強調しています。

本当にしんどいときは、言葉に出せないんです。
「しんどいことは、言いなさい。本音を全部言いなさい!」と子どもに言ってませんか?
みなさん、思春期の時に、本音を親に言っていましたか?
僕は絶対言わなかった。親には心配をかけたくなかった。言える範囲で友達にちょいちょいとしゃべって、もう一人の自分と話し合っていました。
「好きな人ができた。」
そういうことを親に言えますか?

対人援助の中で大事なことは察する力です。本当に落ち込んで悩んでいるときは言葉にならない。一番大事な支援というのは、「気にしているよ」というメッセージを出しながら、横に居てくれる人がいるということです。言葉ではない。そんな気がします。
それって家族じゃないかと思うのです。自分が産んだか産まなかったかに関係なく、家族っていう、屋根の下で一緒に過ごすことが大事だと思います。

多少不十分さはあったとしても子どもが10代、20代まで生きてきたということは誰かに育てられたことは間違いない。人の世話になってきた子どもたちは、誰かを助けたいという気持ちが育くまれていく。
助けてあげて「うれしいな」と言ってもらえたら余計にうれしいじゃないですか。自分が他者と関わることによって「うれしいな」といってもらえる。

つながって生きるということ

一つは、助けてつながるということ。
例えば、学校には行かないけれど、お母ちゃんのことが大好きな女の子がいて、自分には何ができるかなと思った時に、彼女はクッキーを焼きました。クッキーを焼いて、仕事をして帰ってきた大好きなお母さんに食べてもらった。そしたらお母さんが「おいしい」と褒めてくれて、ひきこもりから家族の中で居場所を見つけ、気持ちが外に向かっていったという変化がある。

不登校の親の会で自分の体験を語ったりするようになる。その中で自分が支えてもらって、育ってきたことを改めて確認し、自分の体験を話すことで誰かを励ましたり、誰かを助けている。
子どもたちをいつまでも保護や排除の対象にしてはいけない。

もう一つは、誰かに助けてもらって生きるということです。
「助けて」と言うことは、生きる力の大事な柱です。
「助けて」と言った時に、ちゃんと助けてくれる人との出会いを積み重ねることで身についていく力だと思います。
一人でがんばってきたから、優秀でできたから、自分の人生で困ったときに相談できる相手がいない。だから、うつ的な症状を呈したり、自分を責めたりする。

三つ目は誰かと一緒におもしろいこと、やりたいことを一緒にやってつながっていく、日常生活の大事さです。

誰かを助けてつながる、誰かに助けてもらってつながる、誰かとおもしろいこと、やりたいことを一緒にやってつながっていく。気が付いたらそこに頑張っている自分がいるわけです。
遊びとか働くことは、気がついたら日が暮れるまで遊び倒したり、頑張っている自分がいる。頑張って一緒にやった人が友達になっているのです。

次はCさんの語りです。
「私は小、中と不登校で当時大学4回生で立ち直ったとかおっしゃいますけど、学校へいかなくなる前も行くようになった今も私は私であることに変わりません。
私は立ち直ったといわれると腹が立ちます。
「前の私はなんだったの?」
それも私が必要だった時間だと思う。この国は頑張ることを美徳とするのですが、がんばらなくてもいいなと思う。頑張るとは自分で自覚していないので、頑張るときには自然にがんばるようにできていると思う。
ちゃんと育てよう、と思うのでなく、毎日楽しく暮らそうと思う方がいいと思います。」と話していました。

本質的な問いを大事にしてほしい

子どもたちが自分でその人生を選び取っていこうとするのが、思春期、青年期です。
その思春期に抱える課題は3つあると思います。
1つは働くこと。
10年後にどんな人間になりたいか、誰かを助けられたらいいな。じゃ、その仕事ってどんな仕事があるのだろうか?
と選択の幅がひろがる。福祉だけでなく、看護や医療や人を助ける仕事はたくさんある。仕事でなくても人を助けて生きていきたいとおもうと、人とつながって生きていける。

2つめは、「あなたは何のために生きているの?」という問いです。
みんな子どもたちはかけがえのない命と幸せになる権利をもってこの世に生まれてきている。
自分にとっての幸せを実現するために生まれてきている。その時に、
「なんのために生きているのだろうか?」
そういう本質的な問いにぶち当たるのが思春期です。
そして、今、子どもが大事にしているものを応援してやってほしい。勉強に直結してなくても、大事にしてやってほしい。そこからその子らしい芽が伸びる。いろんな芽が伸びてくる。
そういう中で自分らしさ、アイデンティティが確立する。援助者は「どんなときも応援しているよ」というメッセージを伝え続ける。

3つ目は社会参加。
これは家庭や学校教育の中では、強調されすぎているのではないかと思います。
しかも、働くことが狭い意味の進学指導、就学指導になっている。生き方を考えるキャリア教育になっていない。
自分の過去、現在、未来を意味づけながら自分の未来を考える、これが進路指導ですよ。
「なりたい自分になるために」…なりたい自分は変わります。
「やりたいことを仕事に!」…このフレーズもよくあります。
やりたいこと、好きなことをして飯を食っている大人はどれだけいますか?
むしろ、好きなことができない大人の方が多いかもしれない。
「ご縁があったところで、とりあえず頑張ろう、」
と、同時に好きなことは、趣味の世界でやりたい人と集まって社会を広げる。それも大事。でないと、PTAの活動や、地域の活動やボランティアもなくなります。

問うこと、聴くこと、語ること

気になる子がいたら、気になる子の様子に遭遇したときに、家族とか、援助者としてどんな風に声をかけるか?
「どうしたん?」と声をかける。子どもは「何でもない」というでしょう。そしたらどうします?
「ちゃんと全部言いなさい」
みたいな…。
「別に…」と言われたら?
「そんなことないでしょ!」ってつい言っちゃう。そしたら余計にしゃべらなくなる。

子どもの言葉の表面的な言葉尻にとらわれることなく、僕なりに翻訳すると「別に…」っていうのは、「お母ちゃん、心配してくれてありがとう。でも、僕なりにがんばるし、ほんまに困ったときには、相談するからよろしくね」というメッセージが込められています。
そう受けとめられたら、「なんかあったら、また言ってね」でよいわけです。つまり、大事なことは
「あなたのことを大事に思っているよ」
というメッセージを絶えず伝え続けることです。

そういう人にこそ、本当に困ったときに相談にくるのです。言葉のやりとりやそういう関係があって、
「あの人やったら聞いてくれそう」
と思ったら、5回10回と悩んだ末に相談に行くのです。

問うことの意味は、なんで、この子はこんなに攻撃的なんかな?なんで勉強がままならないのか?なんか落ち込んでいるな?と言動の意味を問い詰めるのでなく、自分に問う。
自分だけでわからないときに、仲間で問う。
先輩の里親のお母さんであるとか、友達であるとか、「どやった?」とか、「どうしたらいい?」というふうに。

子どもの否定的な言動というのは、大人に対するSOSです。上手には言えていないけど、SOSなのです。それを問いながら聞く。それがネットワーク支援ということです。

二つ目は、「聴く」ということ。これは子どもの否定的な言動、感情を聴くということです。
理屈じゃなくて、聴くのです。腹立つ、むかつく、しんどいねん、嫌やねん、しゃべるな…みたいな喜怒哀楽はどうやって育つのでしょう?
思い切り笑う、思い切り泣く。思い切り怒る、せつないときに思い切りせつない思いをする。

逆に感情にふたをして、「男だったら泣くな、弱虫、するんじゃないよ」と自分の感情に蓋をしてきたら、本当に困ったときに相談できないし、人を助けることもできない。だから一人になっちゃう。良い子は思春期に突然キレるということになる。というふうに思います。

もうひとつ、解決請負人にならなくて良いということです。
場合によっては、一緒に時間を過ごし、横にいてやる、わかったふりを装わず、わかったつもりにならず。わからないなりにわかろうとする。その気持ちが大事。
あえていえば、「言語化を急がない」ということです。言わんとわからんとかじゃなくて、本当にしんどいときは、言えない。いろんな不安や葛藤や傷つき体験は言葉では言い尽くせない。

3つ目は語るという関わり。何を語るかというと、「自分を語る」、「自分の失敗を語る」ということです。
大人が成功したときの話は、子どもにとっては単なる大人の自慢話にすぎないのです。
すると子どもは去っていきます。私はこう思うよ、私だったらこうするよ、こうしてきたよというほうがスッと入る。と同時に、中学校や高校のときに、自分はこんな悪さをして失敗もして、助けてもらって、それをしのいできたかの話の方が子どもは聴きます。

「自分は、あんなことがあったから、今の自分がある」という負の体験をきちんと自分の人生に意味づけること、それを手伝ってやること。
過去の負の体験を意味づけ、今の生活や人間関係が意味づけられたら、子どもって勝手に未来に向かってはばたいていきます。

もう一つ、語るって、子どもががんばったときに、たいてい、「頑張ったね」で終わるんです。間髪入れずに「次もこの調子でがんばってね」とか大人は言っちゃう。決定的に抜けているのが、「お母さんはうれしい、お父さんはうれしい、先生はうれしい」という自分の存在が、自分がやったことで周りの人々がうれしくなるということをなぜ届けないのですか?
一人称で自分を語るというのは、失敗だけでなく、僕もうれしいということをちゃんと言葉にして伝えてください。それが肯定感につながるのです。

本当にがんばったら、次はねぎらいの言葉です。
お疲れさんを枕詞にしないでください。「お疲れさん、さぁ、次よ!」って言わないこと。お疲れさんって言ったら、ちょっとゆっくり休めということを言ってください。

私はこのことを祖父から学びました。お月様が出ていても田植えの時期は終わるまで家に帰れない。小学校4~5年生のころです。この家は僕がおらんとやっていけないと思ったのは、じいちゃんが、「ようやってくれた、お前がいてくれて助かった、よう休め。風呂入れ」って言ってくれたからです。どんなに自分が支えられて誇りを持てるか…。というのが、僕の原体験です。
子どもに頼ることも大事だし、どんな子どもも認めてほしいと思っている。頑張ったら、「一休みしたら」って言ってあげてください。

講師プロフィール 春日井 敏之 さん
京都府内の公立中学校教諭として20年あまり勤務。生徒指導、進路指導、教育相談等を長く担当。2001年より立命館大学文学部人文学科教育人間学専攻に。
専門は臨床教育学、教育相談論。親の会などに関わりながら不登校支援、学校現場の教師との事例検討会も長年継続している。

著書:「学校をもっと楽しく!」学研教育出版 2014年(共著)
「出会いなおしの教育:不登校をともに生きる」ミネルヴァ書房 2013年(共編)
「やってみよう!ピア・サポート」ほんの森出版 2011年(共著)
「よくわかる教育相談」ミネルヴァ書房 2011年(共編)
「思春期のゆらぎと不登校支援-子ども・親・教師のつながり方」ミネルヴァ書房 2008年 他

(年次総会記念講演の要旨を協会でまとめました。)「育てる」No,51より転載